
2020.8.27
Vico Magistretti マジストレッティの日本の家
今年は Vico Magistretti ヴィコ・マジストレッティ生誕100年。イタリア文化会館でのイベントは大半なくなったが、財団からは情報が今も多く発信。ある写真を見つけた。1987年に竣工の目黒区青葉台の谷本邸。Cassinaに転職してまだ研修中の入社3日目から担当した。この大きなマジストレッティの日本で唯一の住宅。今はもうない。かなりの数の家具や照明器具など一つ一つ手配し、現場で作業の方々と組み立て置いたことや、感触、初めて見る実物の美しさの感動。しかし、イタリアからは遅延や誤出荷。引き渡しまで時間が無い。何度もこの廊下を階段を走り、現場で泣いたこと、昨日のことのように思い出す。これでやるように、と指示は、マジストレッティからのファイル1冊。写真と図面と一部の生地サンプルが貼り付けてあるだけ、文はない。(そして、この貴重なファイル、後に勉強になるので誰もが閲覧できるよう棚に置いていたが、おそらく嫉妬したのか、あるスタッフに捨てられてしまった。とても残念なこと。)未発表の知らないデザインばかりで、ネットもなく、未だ新人だった私が、有能な先輩から急遽引き継いだことで、社内はなかなか進まず、現場監督に怒られてばかり、実に苦労した。結局は、施主の谷本さんに多く助けていただいた。谷本さんはとうに他界された。昔のこと。スクエアビルはじめ 六本木通りのほとんどのビルを所有、と言っても過言ではなく、ショーパブやディスコ、キャビアの店、乗せていただいた多くの高級車、海辺の別荘.. 派手な時代の思い出も山ほどだが、何より、心ある大切な恩師の一人だった。マジストレッティは、TANIMOTOという名の美しい本棚をデザインに遺した。後の、株式上場への過渡期に、経営となり、重責や政治を乗り越えられたのは、何もうまく進められない最初に、谷本さん、この現場で支えてくださった人たち、当時出会った今はいない恩師たち、マジストレッティの厳しさ、など出会いのおかげ。その後、かなりの数の物件を担当したが、この谷本邸が、私のインテリアの仕事の原点。そして、若い頃に出会えたすばらしい人や経験は、かけがえのないもの。今に未来に繋がる。ヴィコ・マジストレッティ生誕100年@fondazionemagistretti ヴィコ・マジストレッティ財団(この谷本邸に関しては、過去何度か書いてきています。良かったら探して見てください。)
2020.7.16
豊島園 閉園へ
姉から送られてきた写真。
家族や友人との思い出がたくさんつまった遊園地が、夏で閉園だからと。開業は大正15年。
'世界的に見ても最古級といわれる'ドイツの回転木馬、カルーセルエルドラドは100歳。
子供のころ、森の向こうにキラキラ見えてくる、このメリーゴーラウンドの幻想的な光に、どきどきした。近い外国だった。
わたしの原風景の一つ。
ラジオで聴きました。山下達郎さんの「さよなら夏の日」は、豊島園の流れるプールに高校生の時GFと行った思い出の曲だったのですね。すてきです。わたしの、'流れるプール'は父との思い出。小学生の時だったか楽しく遊んで帰宅した後2人で高熱で寝込んだこと。
2020.7. 1
ベルガモAndrà Tutto Bene先日ある方の Vico Magistretti ヴィコ・マジストレッティの投稿を見てイタリアの多くを思い出したある時期 20年くらいは旅ばかりでプライベートでも時間ができたら出ていたが特に イタリアは仕事でミラノ中心に各地よく行った観光ではなかったがずっと強く印象に残るのは小さな街はベルガモ長い城壁 見下ろす街感じる不思議な中世の空気初めてはもう30年も前だがインテリアやアートのアトリエも多くそれまで見たことない豊かな美しさだったイタリアの人たちが返してくれる言葉はいつだって希望があり歴史からか成熟してユーモアあり知的で今だって元気よくAndrà Tutto Beneと返ってくるきっとすべてうまくいくうまくいくといいねと。
2020.6.30
美味しいパン
5月22日のこと。
まだ外出もできない誰とも会えない時、
Cassina 時代の先輩で長年の友人が家の近くまで、大きなパンを届けに来てくれた。
黒豆入り天然酵母食パン。焼きたて。2斤。
閉鎖中の麻布十番Courageの支援のため、パンをたくさん買って車で配る、
こういうとこ、若い頃から、自力で経営者になった今もまったく変わっていない。
いつも人の気持ちや状況を考え行動する兄貴。
20代から、組織のあらゆる激動期に苦楽を共にしてきた大切な仲間。
一瞬だったが久しぶりに会えて、手渡しで受け取り、うれしかった。
とても美味しくて、1日で2kgは太った様子。
ほんとうにありがとう。
@Courageクラージュ 麻布十番
2020.6.12
命日に村上春樹さんのラジオから聴こえたアリア
5月のこと村上春樹さんのラジオ
村上RADIO スペシャルの最後は
乾杯のグラスの音と
春樹さんの「おやすみなさい」で終わった
最後にかかった曲は
ジークリット・オネーギンの
君がみ声に我が心開く Mon coeur s'ouvre a ta voix
この美しいアリア
大好きで
わたしは Filippa Giordano フィピッパ・ジョルダーノの歌で
昔は仕事でも選びよく使った
だから涙が出た
徳丸真代さんが気に入ってくれて
よく一緒に聴いたから
だからその後亡くなってから長い間
聴くことができなかった
村上春樹さんが
リスナーからの言葉を引用して
今を
「月が2つあってもおかしくない状況」とか
そして
「思い出がたくさんあるって、歳をとると、いいことと思う」
とか言っていた
でも
多くのことは忘れてしまうのだけど
慌ただしく不思議な気持ちのまま
5月も終わり
写真はキューバでの
徳丸さん操上さんJOAQUIN BERAO
預かっていた資料がたくさん
5月という命月に出てきた
わたしのインテリアの仕事で最も長かった会社Cassina Japanの外部顧問だった徳丸さん。
アーティストらしく繊細で鋭い強い感覚で厳しかったが、
わたしが上場に向けて役員となり、経営の複雑な問題を抱え多忙な時期、また独立するときも支え
「これからも変わらず会おうね」と心から言ってくださった。
現実的に、多くの人を紹介くださり会社の利益にも貢献くださった。
注目され意外に不器用で真面目。誤解されやすい難しい立場だったと思う。正直な人は極めて少ない。だから信用できる。感謝が絶えない。小林麻美さんをご紹介くださったのも徳丸さん。今はない、当時のかっこいい都心の中心にいた東京人らしい、ある時代の文化を創り出した一人。
ファッションスタイリストの徳丸さんから、多くのプレゼントをいただいた。
この大きな布はBALIのもの。またBALIに日本人旅行者が少なかった頃から通い、BALIを愛していた。モダンな家具インテリアに、土っぽいものを入れたほうがいいという提案を持ち込んでくれた。それがいいとか悪いとか、センスがどうだとか評論するスタッフは多かったが、私が持っていたのは数字の責任で、仕事は単なるお飾りではなかった。組織が決めた顧問との関係を良好にすることも重要だった。流行を追うだけの後発でなく、少しずらすとか、はずすとかがセンスだと、ある一時代を創った周りのプロの大人たちから、目に見えないもっと深い多くを教えていただいた。